聖書のいい話 関係者分かっていて口ないだけで聖書全くのフ

あなたの自己責任において、どう信じようが自由です。関係者分かっていて口ないだけで、聖書全くのフィクションであり、聖人のようなキリストなどいるず無かった
いうの、ほぼ確実である理解てよいのね
客観的、合 理的、科学的なご意見望みます アダムの致命的不従順とキリストの勝利の従順。しかし。罪の増し加わるところには。恵みも満ちあふれました。それは。罪が
死によって支配したように。恵みが。私たちの主皆さんの中には私たちの今週
の聖書通読の箇所である。箴言を読んだ方もおられると思います。心身
健康を目的としたただの思想や習わしや感情を集めたものではない。という確信
を確固なものにすることをねらいとしています。そのうちの一つはパウロが
自分がキリストとアダムについて考えていることに。言及しています。

聖書の世界に生きた人々26。人を見ていて。言われてみれば「そう言えばそうだった」と改めて確認するよう
なことがあります。イエスの弟子となった使徒ピリポなどはそんな感じがし
ます。聖書の世界に生きた人々 使徒ピリポ?不安も疑問もそのまま語れる人
? ヨハネの福音書章?節したのですが。ピリポは即座に「来て。そして
。見なさい」とだけ語って。いわゆる議論というものをしなかったのです。
ピリポはこの段になってもイエスと神の関係がよく分かっていなかったのでしょ
うか。聖書のいい話。イエス?キリストを自分の救い主と信じた瞬間から。私たちは『神の子ども』と
される。と聖書は約束しています。私たちは誰も「明日の事さえも分からない
。弱くて限りある者」です。1年後のことを考えながら生きているなんて。
もしかしたら傲慢な本来私たち人間は「ただ与えられたものを消費して生きる
だけ」のような『受身的な存在』なのではなく。1人1人がそれぞれのもので
あり。これらはすべて「人と人との関係」において育まれ。互いに提供し合う
ものです。

生命科学の目で読む哲学書。何れにせよ。科学と哲学の関係については。17世紀を考える時扱ってみたい。
さらに現代的なのは。市民権はないが外国から来て。自分で奴隷のような仕事
を望む輩のことまで述べている。実際。モンテーニュ自身も。体系的思想など
全く重視していなかったようだ。また。自然学は。自然界にただ存在と運動
だけを想定するものをとり扱い。形而上学は。自然界になおそのうえにまず
科学者は。このギルドの中だけで科学者でありうるという点は重要だ。『ダ?ヴィンチ?コード』は「キリスト教に対する最も重大かつ。本書が聖書やキリスト教にもたらす影響についてのディスカッション整然と
キリストや神のみことばを疑う精神文化の中で。神学者であり。シカゴ近郊で
牧師をしているアーウィン?謎の儀式がみな正確なものである」と[]。私たち
に思わせようとしていますが。『ダ?ヴィンチ?コード』は。フィクションで
あり。[]しかしながら。少し掘り下げて考えてみればほんの少しで十分です
。この言い伝えの「歴史」の根本が。ただのフィクションにしかすぎないこと
などすぐに

あなたの自己責任において、どう信じようが自由です。私の責任を果たすために、いちおう真実を以下にお伝えしておきます。「イエス?キリストによる救いの知らせ福音」キリスト教での神は万物の創造主のことをいいます。万物の創造主以外は偶像と言っています。基本的にキリスト教では仏教のように転生輪廻は説いていません。人間界は御国に住む天使を生むところであり、他界した後は、その人の持つ魂の質に伴う世界に永遠に住むと聞いています。遺伝悪というものが、原罪としてありますが、イエスキリストを信仰することで、徐々に悪から厭離していくと説いています。ですから、この世が最終的な人間の住む世界ではなく御国霊界が人間の最終的な住む世界と説いています。キリスト教は御国に行くための準備するための教えです。この世の幸不幸が過去の功罪が引き寄せているとは言わず、人間が創造主キリストイエスと共に生きないことを不幸と説いています。ですから、どんな試練、不幸にあっても人間の創造主であるキリストイエスと共に歩みなさいと言っている。イエスキリストは個人的な人生の同伴者であり、平安を伴う永遠の私達の創造主なのです。本当は、教会の組織は必要ないかもしれません。組織化するからその組織を維持するため、人間的な欲が絡んでくる。歴史的にも政治に利用され、本来の目的はどこえやら。基本は神話的ですがアダムが神のとの約束ををたがえることから、創造主との本来の関係を失ってしまったものを、イエスキリストによってどんな時でも神と共に人生を歩むという模範を示し、イエスキリストと歩むことで、本来の神との関係を回復させる。そういう教えなのです。実はイエスキリスト=神創造主なのであり、神自身が人間として生まれ、模範をしめし、今まで見えなかった神を視覚としてとらえられる形にして、イエスキリストの形として人間と関わることを可能にしたのです。キリスト教にも偶像はあります。イエスキリスト万物の創造主が唯一の偶像です。薦めの書籍は、88の聖書の言葉中村芳子著、真のキリスト教?結婚愛アルカナ出版讃美歌はオンギジャンイ第4集伝えよう世界にです。不信仰者は薄々気づいていても認めたくないだけで、聖書は神の御言葉であり、神の御子イエス?キリストは人間となって世に降り、十字架と復活によって救いの御業を完成なさった、というのは確実な真理です。客観的?合理的に判断すればそうなります。世界をお造りになったのは神であり、あらゆる存在も元素も科学の法則も、神によって造られたのですから、神のなさることを「科学的に」理解するのは不可能です。神は科学を超えておられるお方だからです。従って、「聖書はフィクションである」というのは主観的な意見であり、「聖人のようなキリストなどいるはずもなかった」というのは非合理的な出鱈目であると結論できます。IDを公開することも出来ないような卑怯者が何をほざいても無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ア!聖書は歴史的=人文科学的に調べれば、ノンフィクションでありえないのは誰でも解ること。それでもキリスト信仰は存在しつづけた。ひとつのキリスト教が2000年続いたのではない。時代と地域の文化との触発によって信仰は具体的な姿を現すのだ。その信仰が先にあって、正統的信仰を担う教団が最初ローマ皇帝という権力で認定され、それから聖書が作られた。正統が認める文書を集めたのだから。その後千年以上経って、正統派教会に異を唱える者があらわれたが、強大な教会に対抗する根拠として聖書を持ち出した。正統教会が正典としている聖書を盾にすれば容易につぶされることはないからだ。その一派がプロテスタントとして分離した。プロテスタントは正統教会を否定したが、自らの中に新たな正統を建てる皇帝はいないから、オレが正しいアイツは異端だと分裂に分裂を重ねて今日に至っている。そうした分裂している中に、聖書は真実の書だ、と本末転倒のことをいう一派があらわれた。もともと正統派が正統の教えに合う文書だけ選んだ結果が聖書なのに、である。聖書は神の言葉で矛盾もまちがいもない、聖書を規準にするのが正しい信仰だというわけである。ここまで愚かになれるのは、証明がいらない宗教だからだろうね。聖書は手本のあるフィクションです。しかし目的はありました。ユダヤ 一神教は戦争に負けて、属国になったイスラエルの危機から生まれました。聖書の作者の意図は、多神教であったイスラエルの神々を粛清して、ヤハウェのみ信仰にする事で、イスラエルを強固な民族主義的中央集権的な国家にする事であったという説が有力です。ヤハウェはダビデ王朝の成立に関連して国家神とされ、バビロン捕囚を経て唯一神にでっち上げられたのでしょう。ちょうど、第一次大戦後のドイツがファシズム によって国家再建したのと事情は似ています。あるいは、幕末の日本が西洋列強からの脅威にたいし、諸侯連合の幕藩体制から、神道を使い天皇中心の中央集権国家を樹立した明治維新にも似ています。キリスト教もイスラエル末期の不安から生まれた終末思想が背後にあります。更に、ローマ末期の不安な民衆の心理に漬け込んで下層民の間に拡がった多くの新興宗教の1つとして始まったのが最初です。更に、ローマ皇帝はキリスト教が皇帝の権威の裏付けとして使えると考え、これを国教としキリスト教団と結託してイエスを神とする三位一体の神を創作しました。新約聖書も旧約聖書もお手本のあるフィクションです。20世紀ドイツにおける代表的な新約聖書学者ルドルフ?カール?ブルトマン新約聖書の性格はむしろ歴史的なものではなく、イエスをキリストとして伝えるケリュグマ宣教にあるという結論を導きだした。「そもそも福音記者たちに「史的イエス」に関する興味はほとんどなかった。」と結論している。新進気鋭の聖書学者である上村 静 新約聖書と旧約聖書 p192イエスは「神の子」であるとか「神」そのもである、などと思い込まされていることが多い。中略??イエスの死後弟子たちは「イエスがキリストである」という●「神話」を作り上げ、ユダヤ教の一セクトを形成した。それがその後の展開の中でユダヤ教から分離した結果、キリスト教になったのである。。同書p193キリスト教の創設者はイエスではなく弟子たちであり、中略??キリスト教はイエスの教えを伝え引きついたのではなく、イエスがキリストであるという全く新し事柄を伝達する宗教である。聖書のお手本1、バビロニア神話と創世記双方とも「創造の前には水だけが存在。 無形、空。昼と夜が「光」を生み、「時」を司る発光体の誕生を進める『エヌマ?エリシュ』:神々6世代で世界を創造『創世記』:6日間で世界を創世創マルドゥクは6日目に人を土から創世。エロヒムは6日目に人を創世マルドゥクは、人の創世の後、休息。エロヒムは、人の創世の後、休息。バビロニア神話若さを取り戻す魔法の植物を盗む。 → 不死を失う。。創世記神の警告に反し、蛇は「それを食べても死なず、神のようになる」とイブに話す創世記3:4-5。 → 不死を失う。2、ノアの方舟?バベルの塔?創世記は紀元前3800年ごろのシュメール神話が原形です。鳩は立ち去ったが、舞い戻ってきた。…私は大烏を解き放してやった。大烏は立ち去り、水が引いたのを見て、ものを食べ、飛び回り、かあかあ鳴き、帰ってこなかった。そこで私は…、生け贄をささげた。」ギルガメシュ叙事詩の洪水物語、高橋正男訳聖書にも大嵐がおさまったあと、ノアが鳥を飛ばして陸地が現れたかどうか確かめる場面があるんですが、こんな細かいところまでそっくり。これが、ユダヤ教に影響を与えた。3.詩編104はアテン賛歌に酷似している文献学的に紀元前200年ごろ成立したといわれるコヘレト伝道の書も仏教の影教であるとの指摘もあります。4.そのほか、箴言もエジプトの王家教育文書と酷似していることが指摘されている。箴言もエジプト王家の教育文書を写した1920 年代に発見されたエジプト文書が、旧約の「箴言」に非常によく似ていることから、古代オリエントにおける「格言集」の研究が広まりました。旧約の「箴言」 . それに対し、エジプトやメソポタミアの「格言集」には「王の教育のため」とはっきり書かれています。ユダヤ人がバビロニアペルシャに捕囚されたときは586年~紀元前539年ゾロアスター教はペルシア人のほとんどが信奉する宗教になっていました5.終末」「善悪二元論」意識はゾロアスター教から学んだもので間違いありません。光対闇、最終戦争、最後の審判、楽園…聖書の概念とそっくりだと思われませんか?ヨハネ1章5節には「光は闇の中で輝いているが、闇はこれに打ち勝っていない」という印象的な聖句がありますが、これは善を光、悪を闇になぞらえるゾロアスターの教えとそっくりです。7.地図と絵画で読む聖書大百科』p.48カインとアベルの争いについて「農民と遊牧民との間の争いを説明するシュメールの物語と関連づけて論じら れてきた。」とあります。また、羊飼いと農夫については創世記1章28「支配せよ」、創世記2章15「耕させ」とあり、この神の命にそれぞれ従おうとした ものと考えられると解説されています。『世界大百科事典 4』p.679 カインCain「遊牧民族と定住農耕民族の抗争が背景にあるともみなされている。」との記述がありますシュメルのエメシュとエンテンの兄弟の物語。エメシュは夏の実りを司る者、エンテンは冬の動物の住処を司る者。この兄弟が喧嘩をして、最高神エ ンリルに仲裁を求めたところ、エンリルは弟を「神々の農夫」として兄に勝る者とし、しかし兄にも「お前の代わりはいないのだ」と諭して、仲直りをしたとい うお話です。殺人事件にならずに良かった。8.モーセの出自に関しても、アッカド王サルゴン紀元前2334年頃~2279年の出生伝説から借用したものであるという説がある。この伝説はオリエント世界にはかなり知れ渡っていたようでニネベのアッシュールバニパルの図書館や、バビロンから物語が書かれた粘土板が発見されている。内容はというと???「私はシャル?キン=サルゴン、強い王、アッカドの王である。私の母は高位の祭司であった。 私は父親を知らないが、父親の兄弟達は山の中に住んでいた。私の生まれた街はユーフラテス川のほとりにあるAzupiranuSafran。高位の祭 司である私の母は、秘密裏の内に私を産み、葦とアスファルトで作られた篭にいれられると、蓋を閉めた。そして、私を川に流したので、私は自分から揚がるこ とはできなかった。川の流れは私を”王の酌を務める役人”アキの下に連れて行き、すくいあげられた。アキによって私は彼の息子達と同様に育てられた。彼は私を庭師にした。庭師としての私は女神イシュタルに愛され???9.コヘレトは仏教の影響で生まれたという説もある。ディロンというインド?イラン系の学者は、コヘレトに表された思想に通じるのは、世界の宗教では、仏教以外にありえないとして、この書の作者にアショカ王 による仏教布教の影響を見ようとした。当時仏教の影響が、パレスチナにまで及んでいたのはありうることである。日本のキリスト教神学者 木田献一氏も、コヘレトの虚無主義には仏教思想の影響があったのではないかと認めています。イギリスで出版された旧約聖書の「コヘレトの言葉」の注解書で、ア ショーカ王が、紀元前3世紀に、パレスチナのアンティオキアとプトレマイオス朝のアレクサンドリアに伝道のために僧侶たちを派遣したこと、したがって、紀 元前200年頃に、すでにエルサレムでも仏教が知られていたはずだということを、ディロンという学者が述べている〔Barton, George Aaron. A Critical and Exegetical Commentary on The Book of Ecclesiastes. The International Critical Commentary. Edinburgh, Tamp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;T Clark,1912.〕。『本 来のイエス:キリスト教の仏教起源』1995年と題したこの本〔Gruber, Elmar R. amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp;amp; Kersten Hoger. The Original Jesus: The Buddhist Sources of Christianity. Element, 1995. 現在この本は日本語に訳されて出版されています〕。ドイツとウィーンの若手の学者が二人で共同で書いています。読んでみますと、福音書のイエス様の教え は、仏教思想がその下敷きになっているグ ノーシス研究で日本でも知られているアメリカの著名な女性の学者、エレーヌ?ペイゲルズという人が、『グノーシスの福音』という本の中で〔Pagels, Elaine. The Gnostic Gospels. Penguin Books, 1979.〕、南インドで、仏教がトマス派のキリスト教と出合ったこと、その後何代にもわたって、仏教の僧侶が、エジプトのアレクサンドリアで伝道を行 なっていたことが述べてある。人間が自分の脳で考える以上主観的にしか物事を見ることはできません。客観的というのは神の視点に他なりません。合理的な考え方は立場によって何を合理的とみなすかが変わってきます。日本の優生保護法を例にあげるまでもなく、かつて人間によって合理的と考えられていた物が変容してしまうことは良くあることです。原子力発電もある意味合理的な発電方法でしたが、放射能汚染の現実に人間の感情はあっさり合理性を飛躍しました。それほど人間の理性は当てになりません。変わらない理性を持っているのは神だけです。科学の行き着く先は「なぜ世界はあるのか」という証明です。よくいわれることですが、科学も宗教もいっていることは同じなのです。方程式や化学反応がどうして存在するのか、人間はいまだ「最初からそうなっているから」としか答えを出せていません。それに答えることができるのは神のみです。少々長くなりましたが、ですから客観的、合理的、科学的な意見が、あたかも聖書を全くのフィクション、キリストを聖人ではないと裏付けることになるかのような質問の仕方は間違っています。あくまで個人の主観による、時代によって移り変わる可能性のある、信仰に近い意見でしかありません。ちなみに私は直感的にキリスト教をはじめとした人間の姿をした神はいないと思っています。よって聖書も真実ではないと思っています。しかし世界中のキリスト教徒を否定したり批判したりする気はありません。真実よりも重要な物を必要とする人々がいることは理解できますし、許容できる範囲だと考えています。当たり前です。あれが全て現実に起きた事だと信じるのは馬鹿馬鹿しい話です。但し、だから聖書やキリスト教が無価値だと考えるのはもっとバカです。少なくとも2000年近く、ヨーロッパを初めとした世界中の人々が聖書の教えに従って生活を送り、場合によっては様々に解釈を変えたりしているので、昔の人類がどのような思想を持っていたのか、どのような文化を築いてきたのかを解明する重要な手がかりになります。例えばキリスト教ではなく神道の話ですが、「因幡の白兎」の話で昔は喋る兎がいたとかいう話を信じるのは有り得ませんが、執筆された当時に薬草などの文化があったことが分かります。さらには現代における道徳や倫理観というのは、キリスト教などの宗教が元になっているので、宗教がなければ文明というものは作られることはありません。今でも親が子供に躾をする時に、「悪いことをすればバチが当たる」とよく宗教を利用しています。もっと大きなスケールなら、かつてのヨーロッパでは時の指導者が国民をまとめあげるために神様の威厳を利用し、神の名のもとに政治を行っていました。日本でも大化の改新以降、天皇が日本を治めるために神話を作りましたし、封建時代からも指導者はその天皇の威厳を利用して日本をまとめてきました。世界で流行している宗教というのは大抵、「生前に善行をつんだり苦しいことに耐えれば、死後に天国に行けたり報われたりする。悪いことをすれば死後に苦しみ続ける。」という内容が含まれています。この教えのおかげで、見返りがなくても人々が積極的に奉仕や協力活動を行うようになり、 文明や社会が発達して大きなコミュニティとなり、だからこそ世界で流行した宗教になったのです。もし宗教がなければ、損得勘定や見返りの約束されたことでないと他人に協力しない、誰かの利益を横取りすることばかり考える、そんな人ばかりになってしまいます。いま問題になっているマスクの転売も、別に頭が悪くて転売の仕組みが理解できないのではなく、「みんなが困るのは知っているし社会の迷惑になるのも分かるけど、『自分は困らないし儲かるから』別にいい」と考えて転売を続けています。これと同じで、宗教がなかった頃というのは、「自分勝手な事をすれば周りが迷惑するのは知ってるけど自分は困らないから別にいい。周りの人間を出し抜き続ければ周りはどんどん不幸になるけど自分はその分どんどん幸福になる。永遠には続かなくても自分の生きている間だけで十分。自分が死んだ後に社会や文明が滅ぼうが自分はすでに死んでいて困らないからどうでもいい。」こんな考えの人がごまんといました。こういう人達の考えを改めさせるために必要なのが道徳や倫理であり、その教育に耳を傾けさせるために必要なのが宗教だったり神話だったりするのです。なのでキリスト教の信者は聖書や神様を本気で信じているわけではなく、「嘘だとは分かっているけど、教えに従えば自分も周りも幸福になるし、事実世の中はそうやって発展してきた」と考えているのです。これが「信仰」というものです。其の様にした時に、日本史で正しくとされるのは、誰ですか?世界史では?事実な無くなる?「…ほぼ確実」との根拠を教えてください。科学でも何でも結構です。旧約聖書は神話かなー。新約聖書は宣教メインで、イエスの教えが復元難しい。最初期から、史的イエスと宣教のキリストが意識されていて、後者が重視されたらしいから。ーーー個人的には、宗教としては無問題だと思う。仏教だって、ブッダを超人化してる。仕方ない。僕個人はイエスは好きかな。結局、自分がココロ惹かれるものがいい。ボクは仏教ヒンドゥー教アドヴァイタが好きだけど、時々聖歌を歌いたくなる。いい歌多い。*′□`*~????*+o 慈しみ深き友なるイエスは?。聖職者牧師?神父?司祭?司教?法王の全てが信じてるわけでもなく信じてないわけでもなく色々な人がいるでしょう。そこに所属している信徒と言われる人でも信じている人もいれば信じてない人集会?行事?儀式…が趣味などもいるでしょう。世界で最も発行部数の多い同人誌ですから。

Write a Reply or Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です